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古代東国と上毛野国

古代東国と上毛野国を考える3つの鍵

 

1、渡来人の実態

   渡来人の技術や文化は、想像をこえた先進性を

  この北関東の地にもたらしました。

   彼らの地位や実態は、未だ多くが謎の中です。

2、朝鮮出兵や蝦夷との関わり

   北関東の古墳文化は、

3、日本の原像としての縄文文化

   東日本を中心に発達した縄文文化のなかには、

  大和の国からみて単なる国土統一の野望だけで

  ない、豊穣な土地としての魅力がありました。

国分寺と橘諸兄

 天平一三(741)年、多くの災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、東大寺建立をはじめとする国分寺を国ごとにつくることを命じました。

 上野国の国分寺は、750年頃に主な建物が完成したようです。

 

 僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60mにも及ぶ七重塔が建てられていました。

 

 奈良県で一番高い興福寺の五重塔でも50.1メートル。木造日本一の高さを誇る京都の東寺五重塔でも54.8メートル。

五重と七重の違いはあるものの凄いことに変わりはありません。各地の国分寺も、ほぼ同じ設計図によってつくられていたようですが、上野国分寺は早い時期につくられたこともあり、全国でも規模ともに整ったものだったようです。

 東大寺の七重塔の推定高100メートルには及びませんが、おそらく当時は上野国のかなり広いエリアからその姿をみることができたことでしょう。

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを

     いませわが背子 みつつ偲はむ

                         

                           橘諸兄 (巻二十 4448)

  天皇と藤原氏を中心に律令制度を軸としたこの国のかたちがようやくできはじめた天平時代。災害や疫病とともに、その中枢を担っていた藤原四兄弟をはじめとする多くの議政官が次つぎと亡くなってしまいました。

 そんなときに藤原氏以外から聖武天皇を補佐し、大変な国分寺政策の責任者に抜擢されたのが橘諸兄です。

 橘諸兄ははじめ葛城王といい、光明皇后とは異父兄弟でした。橘の姓を賜ったとき、聖武天皇から頂いた御製は有名

     橘は実さへ花さへその葉さへ

     枝に霜降れどいや常葉の樹

                  (万葉集)

 多くの人びとが苦しみのなかにあるときに、仏教による救済を求めて聖武天皇は、東大寺をはじめとする巨大寺院や仏像の建立に人々をかりたてたのです。そんな無謀な計画は、決して長く続くものではありませんが、その責任を担わされた橘諸兄のこころの内はどのようなものであったでしょうか。​

 

「万葉集」は「遷都と仏教支配に失敗した橘氏が仲麻呂勢力に対して行った文化的戦い」(梅原猛「天平の明暗」中央公論社)との見方もあります。紫陽花の歌が、万葉集編さんの中心人物である大伴家持と橘諸兄の二人だけによって詠まれているということに、なにか特別の意味でも隠されているのではないかとも思えてきます。

 

 上野国分寺跡にたって橘諸兄の紫陽花の歌をよんでみると、日本をおおう大きな政治のうねりと、その職務を背負ったひとりの人間の苦悩の姿、またそこにかり出された幾多の人びとや高度な技術をもった名もなき職人たちの息吹を感じることができます。

【企画・制作】 Hoshino Parsons Project

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