top of page
伊香保万葉歌 謎 訂正 額装用 - 文字縮小.jpg

峠三叉路交差点 昭和57年12月建立 揮毫者 書家 佐々木心華

専門家のあいだでも解釈のしようがないといわれている難解な作品です。

 

樋口秀次郎『上野万葉紀行・東欧の世界』のふたつの解釈がわかりやすいので以下紹介します。

 

「伊香保の男よ。あなたが私を慕って泣きなさったことも思い忘れはしませんが、

私に隠しごとをなさったと言うことを忘れませんよ。」

「伊香保おろしが夜どうし吹き荒れると、きまって思い出すよ。

お前と空っ風の中でしのびあった夜のことを。忘れようたって忘れられない。」

 

 

 

 

 

 韻だけを「イカホセヨー、ナカナカシゲニオモイダー」 と追えばまるでハングル語の響きではないですか。

 もちろん、古代朝鮮語とハングル語は違うでしょうが、 古代朝鮮語と日本の古代文字の密接な関係は、多くの 研究者たちが指摘しています。なにかの手がかりもある のではと思ってしまいます。

 

 いっそ落語の「千早振る」(竜田川という相撲取りが千早 という花魁に恋をした話)のような珍説でも、それなりに 意味をよめるようにしたいものです。

 ちなみに「千早振る」流に読めば、 実はこれは次のように スルメを作っている漁村の熊さん八つぁんの話になるのです。

 

(早く、今獲ってきた)イカ干せよー、

(いくらおまえに頼んでも)なかなかしないと思っていたところ

(隣りの)クマ公だったらきっとしてくれるだろう、

(そうだあいつなら)きっと忘れないだろう、と。

 

漁村のはなしでは群馬に関係なくなってしまうではないかと言われそうですが、 これは上毛野の 国から防人に旅立った熊さんと八つあんが、帰り路、 新潟の柏崎あたりでこれまで見たことのな い海の幸に感動し、 これをなんとか土産に持って帰れないかと、 イカをスルメにして帰ろうとい ったときの話なのです。

どうです?これが一番わかりやすいでしょう。

 

 

 

 

伊香保山から榛名山への変遷

 

 

伊香保という、今では伊香保温泉の地域に限定した名前が、かつては榛名山麓広域をさしていました。

それが榛名という地名に、いつどのように入れ替わったのでしょうか。

 

このことは、伊香保神社と榛名神社の歴史をだどることと密接に関係しています。

 

 

 

 

 この分野の研究は、尾崎喜左雄博士が群馬の神社に関して『上野国の信仰と文化』(尾崎先生著書刊行会)のなかで詳細に考察されていますが、内容を簡潔にどうまとめたらよいか苦慮していたところ、修験道に関する研究の分野(宮田 登・宮本袈裟雄 編『山岳宗教史研究叢書⑧ 日光山と関東の修験道』)から井田安雄氏が簡潔に尾崎博士の研究をふまえてまとめられていたので、ここではそれにもとづいて紹介させていただきます。

 

  なお、ここで紹介させていただく本は、入手難なものが多いので、引用は惜しまずに紹介させていただきます。

 

 

 

尾崎喜左雄 『上野国の信仰と文化』

尾崎先生著書刊行会(1970/05) 

 

 

山岳宗教史研究叢書⑧ 日光山と関東の修験道

宮田 登・宮本袈裟雄 編

名著出版  写真はオンデマンド出版品 定価 本体5,800円+税

 

 

 

 ところで、『万葉集』に詠まれている「イカホ」がどの地域をあらわしているのかという点については、早くから論議されたが、一般的には、現在の伊香保、榛名山をふくめた地域を、古代においては「イカホ」とよんでいたものとされている。その論拠は、一つには、『万葉集』の中に「伊香保の沼」とか、「伊香保嶺」という表現がみられること、その反面に、九世紀までの文献に、「榛名」という地名が出ていないことなどによる。

 

 このことについては、江戸時代の本県地誌類でもとりあげている。たとえば、『上野国誌』には、「按に伊香保は山の名なり、今の伊香保、榛名、
水沢、蓑輪の諸山、都て伊香保なり」とあり、『上野名跡考』には、「式、万葉の歌等によりて見れば、今の榛名山は都て上古の伊香保山といひし
なるべし、榛名より下す風をいかほ風とし、今の沼をいかほ沼と云にても知べし」とある。

 

 

 では、いつ頃から今の榛名山という呼び方に変わってきたのでしょうか。

 尾崎喜左雄博士の説にもとづいて以下のように続けています。

 

 

 榛名という地名が、(現存の)文献の上にあらわれてくるのは、『延喜式』(十世紀はじめ編さん)以降である。しかも、ここで注意したいのは、『延喜式』の中に、榛名神社とともに、伊賀保神社(伊香保神社)の名が見えていることである。もし、万葉の時代に、榛名という地名があったのなら、「伊香保嶺」という表現ほかに、「榛名」があってもよさそうなものである。仮りに、『万葉集』の成立を八世紀の終わりとするなら、すくなくとも、そのころまでは、榛名という地名はなかったか、あるいは、一般的な呼称ではなかったということができるのではなかろうか。

 

 

 

 「イカホ」という地名が、今の狭い地域に限定されるようになったのはどのようないきさつがあるのだろうか。

 

 『延喜式』には、上野国関係の神名として、十二社が登載され(いわゆる式内社)、そのうち、三社が大社となっている。上野国の大社として『延
喜式』に登載されている三社とは、甘楽郡の貫前神社、群馬郡の伊香保神社、勢多郡の赤城神社である。この三社が、古代上野における三大社として考えられていたのである。これに対して、榛名神社は小社として登載されている。尾崎喜左雄博士の研究によると、榛名神社については、「六国史には一回もその名が出ていない、『延喜式神名帳』にはじめて名を連ねている」ということである。

 

 ここに榛名神社と伊香保神社の関係が問題となってくる。

 

 両社とも、旧群馬郡に鎮座しており、伊香保神社については、承和二年(835)の『続日本紀』の記事をはじめとして、『六国史』の中にも、その
記録が、しばしば出てくるが、榛名神社については、前述のように、中央の記録には、『延喜式』に出てくるのが最初である。

 しかし、榛名神社のことが、中央に知られるようになったことについては、それ以前から、地方の名社であったことが考えられる。しかも、同一郡
内に、有力な神社が、二つあることについてはその崇敬者と、両社の格の差について注意してみる必要があろう。

 

 

伊香保神社と有馬氏

 

伊香保神社を崇敬していた豪族については、尾崎博士は、旧群馬郡東部を支配した有馬氏(阿利真公)であろうとされ、伊香保神社の鎮座地については、古墳の分布、『神道集』の「上野国第三宮伊香保大明神事」、『上野国神名帳』記載の「小伊賀保明神」や「伊賀保別大明神」などの分布や、神領との関連などから、もとの鎮座地は、北群馬郡吉岡村大久保の三宮神社の鎮座地であり、現在の伊香保神社は、同地から遷座したものであろうとする。こうしたことの裏付けとして、伊香保神社が、平安後期にいたると、記録の上でも大きく扱われなくなり、中世において早くその勢力を失ったのは、伊香保神社を崇敬した有馬氏の勢力の衰退によるものであろうとされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)

上野国三大社は、富岡市一之宮町の貫前神社、前橋市二之宮町の赤城神社とこの三宮神社

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡島成行 『上毛野国』より

上記の図では、榛名山の東南山麓に有馬君と車持君が二分した勢力圏を持っているが。

時間軸を加えてみるならば、万葉の時代、蝦夷征伐の終了とともに有馬の君は衰退していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若伊香保神社 (渋川市有馬 泰叟寺隣)

 

 

「式外社であり、おそらく、豪族の手によって祭祀を受けていたものであると推定できる。

それゆえに、伊香保神と鎮座地が接近し、同名の神名を有することから、同一の豪族によってまつられていたといえる。

ただ、「若」なる語を冠することにより、伊香保神と区別されていた。

伊香保神は、もと、若伊香保神の鎮座地渋川市有馬の地にあったが、崇敬者の活躍と増大、国府からの待遇によって、有馬の地から吉岡村三宮の地に遷座させられ、その旧地に従来の神社が存続し、これを三宮の地の新本社から若伊香保と称したものであろうと、故尾崎喜左雄博士は述べている。」

 

近藤義雄・丸山知良 編著 『上州のお宮と神社 神社編』より

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このあたりの事情を、近藤義雄『上州の神と仏』(煥乎堂 1996)は、もう少し詳しく書いています。

 

 

 伊香保の温泉街中央の石段を登りつめたところに、上野国三之宮伊香保神社がある。これが伊香保神社の本宮のように考えられているが、古
くは別のところにあったのではなかろうか。

 前号の赤城神社のなかで、前橋市二之宮町に所在する赤城神社が、二之宮の地名が示すように里宮の中心であり、三夜沢赤城より早く、古く
はそこが本宮であったと記した。伊香保の場合も同様で、三之宮の地名のあるところの神社が古代の中心になっていたと考えられる。

 

 

 山麓で三之宮の地名を探すと、北群馬郡吉岡町大久保にあり、そこには三宮神社がある。現在祭神は日子穂々出見命・少彦名命・豊玉毘売命
の三神であり、伊香保神社の祭神と一致するのは少彦名命だけである。しかし、このような祭神に定められたのは明治以降のことで、古くみても
近世国学の発展以前にはなかったことであろう。三宮神社の本殿奥深くに御神体として安置されているのは、木彫の十一面観音の立像である。
明治初期の廃仏毀釈のときには、開扉すると目が潰れるといって保護されてきたのだという。神仏習合時代は三宮神社の本地は十一面観音だっ
たのである。

 

 

 本地仏が十一面観音であることは、南北朝時代に成立した『神道集』の「上野国第三宮伊香保大明神事」のなかに、伊香保神社は「里へ下給
テ三宮渋河保ニ立脚ス」とあり、同書の「上野国九カ所大明神事」のなかにはつぎのように記載されている。

 

 三宮ハ伊香保ノ大明神ト申、湯前ト祟ル時ハ本地薬師如来也、・・・・・里ニ下ハ本地十一面観音也、亦大光普照ノ観音ト申

 

とあり、温泉地では薬師であるが、山麓地方では十一面観音となり普く庶民を照し救う仏であると記している。渋河保は、現在の渋川市を中心とし
た隣接吉岡町などの一部も含まれた地方である。吉岡町の三宮神社は、伊香保神社とは記録にないが、三宮の地名や神社の本地仏十一面観
音のあることなど、『神道集』記載の内容に合致している。上野国の三宮は、この吉岡町の神社が古くは本社であったのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

               伊香保神社                            温泉街から続く階段

 

 では、温泉地にある伊香保神社はどのような関係になるのであろうか。結論的にいうなら、温泉湧出以後に近くの伊香保神を移し勧進したのであり、温泉の効能と関係して薬師如来を本地仏とするようになったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   関連ブログ 古代の有馬氏ってどれほどの勢力だったのだろうか?

【企画・制作】 Hoshino Parsons Project

bottom of page