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伊香保万葉歌 沼 訂正 額装用 - 文字縮小.jpg

ロープウェイ ホトトギス駅 昭和57年3月建立 揮毫者 書家 佐々木心華

 

 伊香保嶺が、今の榛名山に呼び方が変わったのは、 伊香保神社を祀っていた地元で有力な豪族有馬氏が、 榛名山二ッ岳の噴火などを契機に衰退し、代わって榛 名神社を祀っていた車持氏が勢力を伸ばしたことによ って山の呼び名も変わったのだともいわれます。

 

 いつの時代でも、政治勢力の変化にともない世の中 は大きく変わるものですが、古いものを完全に否定せ ずに新しいものを積み重ねていくのが、大陸文化とは 異なる日本文化の素敵なところです。

(余話)全国に先駆け廃娼運動がおこった明治の伊香保の姿

 

秘    曲

 

明治16年、群馬県令によって、伊香保温泉は全国にさきがけて公娼廃止を断行した。百余年来、続いて来た我が家の商法を、放棄しなければならなくなった十数軒の妓楼は、時の県令楫取氏に対して、哀願、泣訴、恐喝と凡そ、商売柄出来得る限りの策略を用いて阻止せんとしたが、遂に及ばず、法規の実施はもう目と鼻の先まで来ていた。

 

「盛粧の婦女競うて浴客など、病を治せんとして却って、病を募らしむる如き恐れあるのみならず、土地の人気をして自然淫猥堕弱に導くの傾向もあり、可惜、この天然の浄地をして紛難の穢土と化し去られんも口惜しき限りなり」当時の文書はこうした口調で、この挙に賛意を表した。

 

全国でも、この頃こうした大英断を行ったのは、他に12県あるに過ぎなかった。この文書の論調の正義派的な力に対して、男を売り物にする伊達な妓楼の主人達が何らの反抗も表立っては企てなかったのは、一方開化、進歩の考えが、土地柄、都人士に依って他の土地よりも早くもたらされて居たからに違いなかった。

 

当時まだ伊香保村といって、市街は東西三町、南北四町、戸数百六十九、人口六百五十九の谷間の湯場であり、石を置いた板葺、藁屋根の宿屋が階段状の町筋に櫛比し、湯上りの肌を廊下に出て、風に当てていると、黒光りの手すりがぐらぐらした。つまり手軽な木造家屋が、風雪の激しい季節に洗われ、立ちのぼる湯気のために湿気を帯び、浴客の出入頻繁のため、普通よりも早く寿命が切れるらしかった。

 

ここでは、小屋か便所しか作れない程の土地の大工が、よく土地の棟梁位の腕前を見せたが、それというのも、こうした地形に馴れていたためであった。そして崖の上には又崖があった。一つの部屋をも有効に生かすには、障害物を暗じて居なければならなかった。

 

けれども、明治に入って四年、全村灰燼の大火が起こり、下って十一年再び火は水利に不便な全村を襲った時、旅宿は殆ど左前になり、四年の打撃を復興し得なかった家が重なる不幸に倒産して了った。

 

俗に「焼けぶとり」という言葉があるが、喜んだのは土地の大工ばかりではなかった。狭い村で倒れるものが倒れたあと、利得はそれ丈残ったものに多く入ったといえば、それは子供の算数である。重なる惨事に都会人が同情したが、十一年以来、浴客も急に数を増した。

 

焼ける毎に、家屋は新式の風を加えた。火が文明をもたらした三層四層の家が独自の間どりと接待を競い合い、四月から十月迄の客数はここ三、四年来、三、四万を計上した。十一月から三月迄は冬眠の状態だったので、稼ぐのは正味一年の中七ヶ月であった。客が多くなるに従って、女達も何処からか、流れ寄るものが増えた。土地の周旋屋は手がまわらないと、こぼした。

 

「笑語絃歌は閑泉游禽の声と相和して日夜絶えず、実に山谷間なる壷天の一熱境なり」と当時の紀行に記されている。(以下略)

 

                                       以上、森田素夫「女中部屋」より。

 

 

森田素夫は明治44年10月、伊香保町温泉旅館「古久屋」に生まれ、昭和36年11月没。

 

【企画・制作】 Hoshino Parsons Project

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