長峰公園 昭和57年3月建立 揮毫者 書家 佐々木心華
伊香保嶺の歌垣あたりで結ばれた娘のところへ、若者は花も嵐もふみこえてならぬ雪の夜を、尾根越え沢こえて通って行っても、娘の母親に邪魔されて近寄れないし、しきりに口笛の合図をしてくる彼のことは気づいていても、母の監視に出られない籠の鳥の娘。
このまま帰る気にもなれず行きつもどりつする青年の心情を歌った歌謡でしょう。
歌垣で結ばれることは、神と神の嫁の信仰的伝統から神聖視され、公認されても、母に秘密の場合や母親の承諾が得られない場合は、山ろくの通婚圏の村にはなればなれに相思相愛するだけで、春祭りの夜をまつばかりであったかもしれません。
それだけに至純にもえる愛の炎は熾烈となって、雪のよばいに出かける。恋人との空間をつめるだけでも、顔をかいま見られるだけでも救われるわけでしょう。それは娘にとっても同じ思いであるわけで、燃えゆる恋心を歌ったり、暗に無理解な娘の母親をなじったりして、青年にも娘たちにも謡えるのが民謡の世界でしょう。
(樋口秀次郎 『榛名山と万葉集』より)
筑波山の歌垣
歌垣は東国に限ったものではありませんが、わけても東国民謡は、歌垣を中心に発生、歌を掛け合い、唱和、伝承されており、東歌の大半も歌垣で謡われていた風俗歌が原型のように推測されます。
東国の歌垣で著名なのは、常陸国風土記にある筑波山の女体山の泉のほとりで行われたもの。
筑波山は雲より高く、頂上は険しくて、これを男岳といって登るのは禁止されている。
ただ、東の嶺は岩山で険しいが、その傍らに泉が流れていて、冬も夏も絶えることがない。
足柄の坂から東の男女は、春の花のとき、秋の紅葉のときに、互いに手をとりあい、食べものをもって、馬や徒歩で登り、
遊び楽しんでいる。
と歌垣のことを記しています。その歌垣では、たくさんの歌が謡われたとあるのですが、記録された歌は二首だけです。
筑波嶺に 逢はむと 言ひし子は 誰がこときけば みね逢はずけむ
(筑波山で逢おうね、といったあの子は、誰の言うことを聞いたのか、逢えなかったよ)
筑波嶺に いほりて 妻なしに わが寝む夜ろは 早も明けぬかも
(筑波山に泊まって、妻も得られずに独りわが寝る夜は、早く明けてしまってくれよ)
この風土記の記事と二首の歌から、筑波山の歌垣の情報がいくつも得られます。
一つには、歌垣が筑波山の女岳で行われたことです。筑波山は二神の男女神の山で、この土地の信仰の山でした。そこで歌垣が行われるのは、男女の愛情を神に誓うという性格があるからです。
二つには、女岳の泉のほとりで行われたらしいことです。泉は生命の源を意味しますので、神の山の泉は、生命を躍動させるものです。歌垣は、まさに命の躍動を意味したのです。
三つには、箱根の足柄の坂から東の地域の人が集まったことです。箱根の足柄の坂から筑波山までは170キロはあります。この距離から人が集まったとすれば、おそらく数千人か、あるいは1万人規模でしょう。
四つには、春と秋の季節に行われたことです。春の花の季節は、農耕に入る前で、秋の紅葉の季節は、収穫の後です。ちょうど農閑期に行われたのです。
五つには、男女が食べ物を持参したことです。これはこの歌垣が数日間も続いたことを意味します。箱根の方から来た人は、一週間以上の食料や着替えをもって来たことになります。
六つには、多くの歌が歌われたことです。数千人もの人たちが歌うのですから、筑波山がまるで蝉時雨のように響き渡っていたことが予想されます。
七つには、男女が贈り物を贈答したということです。おそらく、歌を掛け合って意気投合した男女は、別れにあたって贈り物の交換をしたでしょう。それは婚約の記念物であった可能性があります。男女の親たちは、この歌垣での息子や娘の成果を期待しているのです。それは息子や娘が、ほかよりも優れていることへの期待を意味します。よい結婚をするには、よい評判が大切です。記念品を持ち帰れば、おそらく立派な息子・娘と周りから評判になったのです。
辰巳正明 『歌垣 ー恋歌の奇祭をたずねて』 新典社新書
このような歌垣は榛名山(伊香保嶺)でも行われていたのでしょうか。
歌垣があったことは確かでしょうが、このようなものであったかどうかの資料はありません。
しかし、榛名山の4月8日の「山開き」の日には、「山遊び」と称して、麓の男女は食物を携えて山上に登り、榛名湖で禊をして水神を祭り、その後で性的解放が行われた」という明治頃の記録はあるようです。(根岸謙之助)
【企画・制作】 Hoshino Parsons Project